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モネ、ルノワール 印象派の光

会期

2023.06.20〜2023.10.09

展示室

展示室5・6

【会場】展示室5・6

【会期】2023.6.20~2023.10.9

※8/15(火)より一部展示作品が入れ替わります。

作品リストはこちら

本展会期中に展示する作品情報をデータベースにて公開しております。併せてご覧ください。

今回は当館が所蔵する西洋画コレクションの中から、モネ、ルノワールをはじめとする、フランス印象派・新印象派の絵画を一堂に会します。

印象派の画家たちが活躍した19世紀後半のパリは、ナポレオン三世の下、オスマン男爵が取り組んだ大規模な都市改造により道路拡張やガス燈の設置、また鉄道網が形成されるなど、市民生活が大きく変わった時代でした。その変化に呼応するように、伝統が王道とされた絵画の世界も変貌していきます。先駆けとなったのがマネでした。彼は約束事にとらわれない手法で、パリの新しい生活風景を描き出し、絵画に革新をもたらします。印象派の画家たちは彼を慕い、逆境の中で共に学び合いながら新たな表現を模索し、光溢れる絵画を作り出しました。

当館の創設者 松岡清次郎が事業家として生きた20世紀もまた、産業技術の革新により人々の暮らしぶりが目まぐるしく変わり続けた時代でした。清次郎は貿易を手始めに、冷蔵倉庫業、ホテル、教育事業、不動産賃貸業といった人々の生活に関わる事業を数々手がけ、人々の暮らしに目を向けていました。なかでも、大正12(1923)年に創業し本年創立100周年をむかえた松岡冷蔵は、日本の食品コールドチェーンのパイオニア的な存在であり、日本の台所を支えています。清次郎が印象派の絵画に惹かれたのは、画家たちの生活への眼差しや現状を見据え新たな表現を生み出そうとする心意気にシンパシーを感じたからなのかもしれません。新たな芸術を追い求めた画家たちの作品に清次郎が感じ取った理想の美を見つけていただければ幸いです。

昭和42年 松岡冷蔵 品川冷蔵庫竣工記念式典での清次郎 
昭和47年 オランジュリー美術館でモネ《睡蓮》の前に立つ清次郎

第1章 印象派誕生前夜

ウジェーヌ・ブーダン
《夕陽の当たる池》
1856-60年頃
ウジェーヌ・ブーダン
《ブルターニュの村》
1870年

19世紀のフランス美術界では、細かい描写で筆跡を残さない滑らかな画面を持つ伝統的なアカデミズム絵画が王道とされ、画家として認められるにはアカデミーが開催するサロン(官展)に入選することが必要でした。そんなアカデミズム絵画を王道とする美術界に反発するように、新たな潮流が生まれます。ドラクロワはこれまでにない劇的な画面構成と鮮やかな色彩感覚をもたらし、クールベは宗教や歴史、神話といった伝統的な物語絵画から離れ現実世界をありのままに描くことで絵画の常識を壊し、ルソーらバルビゾン派の画家たちは牧歌的な農村風景を描き、物語絵画の背景という印象の強かった風景の、画題としての地位を向上させました。これらの画家たちの活躍が印象派誕生の下地となります。

はじめにご紹介するブーダンはバルビゾン派の画家たちと交流した画家です。海景画を得意とし、屋外でスケッチをして作品を制作しました。ブーダンの描く白雲や空の表現は巧みで、ボードレールは「空の王者」と称えています。1857年には少年モネと出会い、その才能を見抜き屋外で絵を描く大切さを教えました。

第2章 モネ、パリに出る

クロード・モネ
《サン=タドレスの断崖》
1867年
クロード・モネ
《ノルマンディの田舎道》
1868年

モネは、パリの食料品店を営む家庭に生まれ、5歳の時に港町ル・アーヴルに移り住みます。彼は16歳ごろには風刺画で小遣い稼ぎができるほど才能を発揮しており、ル・アーヴルを訪れたブーダンに見出され、自然光のもとで絵を描く大切さを教わります。

1859年、パリに出たモネはアカデミー・シュイス、続いてグレールのアトリエに通い、ピサロやシスレー、ルノワールらに出会いました。1865年のサロン・ド・パリに《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》を初出品し、2点とも入選を果たします。

翌1866年のサロン(官展)にも入選しますが、1867年のサロンでは光の表現にこだわった労作《庭の女たち》が落選。この年の夏、貧困にあえいだモネは家族の住むサン=タドレスに身を寄せます。後に妻となるカミーユは最初の子どもであるジャンを身ごもっていましたが、労働者階級の出である彼女をモネの父は認めず、身重のカミーユをパリに残して家族のもとへ向かったのです。モネはサン=タドレスで熱心に作品制作に励み、後の印象派を思わせる明るい色彩と細やかな筆遣いで、光に包まれる風景をとらえ、初期の名作をいくつも生み出しました。

第3章 印象派展

クロード・モネ
《エトルタの波の印象》
1883年
ウジェーヌ・ブーダン
《海、水先案内人》
1884年

モネとルノワールは、目の前の移ろいゆく光景から得た印象をカンヴァスに定着しようと試みました。その結果生まれたのが、印象派の特徴的な技法である筆触分割です。絵の具を極力混ぜず原色に近いまま、カンヴァスに細かいタッチで並べることで、移ろいゆく風景や繊細な色彩変化を表現することに成功しました。

1874年4月15日「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」が開かれます。後に第1回印象派展と呼ばれることになるこの展覧会にはモネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌなど30名の芸術家が合計165点の作品を出品しました。サロンへの入選経験もあり、幾らかの顧客も得ていたモネたちは、自らの芸術を世に問おうとしたのでした。しかし、この展覧会は経済的に失敗し、保守的な批評家からは酷評を受け「印象派」という呼び名をつけられました。嘲笑が込められたその呼び名は、皮肉にも印象派の絵画の本質を言い当てていたため、世間に浸透し画家たちもその名を受け入れます。

印象派展は1886年までに8回開かれますが、参加メンバーは流動的で全てに参加したのはピサロだけでした。1880年代になると印象派の画家たちは印象主義を超えた表現を目指し、それぞれ独自の道を歩んでいきます。

第4章 人物画家 ルノワール

ピエール=オーギュスト・ルノワール
《ローヌの腕に飛び込むソーヌ》
1915年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
《リュシアン・ドーテの肖像》
1879年 ※8/15(火)より展示

印象派の中心人物であったルノワールは、早くから「人物画家」であることを自負し、友人やその家族、親しいパトロンの肖像画を多く手がけました。

第1回印象派展の翌1875年、ルノワールはモネ、シスレー、ベルト・モリゾとともに、オテル・ドゥルオで作品の競売会を開催します。この時、印刷業者のジョルジュ・シャルパンティエがルノワールの作品を3点購入しました。ルノワールのパトロンになったシャルパンティエ夫妻は肖像画を複数注文し、夫妻が主催する文学サロンに集う芸術家や政治家にもルノワールを紹介することで、その活動を支援しました。夫妻の依頼により制作した《シャルパンティエ夫人と子どもたち》は1879年のサロン(官展)に入選し目立つ場所に展示され、称賛を得ます。これをきっかけにルノワールへの肖像画の依頼が増えていきました。

この年に開催された第4回印象派展はドガの主張によりサロン応募者の参加を認めないことになり、ルノワールやシスレーは参加していません。印象派中心メンバーの分離が表面化してきた出来事でした。

第5章 シスレーとピサロ

生前に経済的な成功を手にしたモネ、ルノワールに対してシスレーとピサロは経済的に不安定な生活の中で作品を制作しました。

アルフレッド・シスレー
《麦畑から見たモレ》
1886年

シスレーは裕福なイギリス人実業家の家に生まれますが、30代前半のころ普仏戦争で敵兵の侵攻により父が財産を失い、困窮した生活を強いられます。 1880年以降、他の印象派の画家たちが印象主義の超克を目指し模索する中、シスレーは印象主義の理念を信じ、困窮生活にもめげずに印象主義的な画風で風景画を描き続けました。ピサロはそんなシスレーを「真の印象主義者」と称しています。

ピサロは印象派の最年長で、他のメンバーから慕われる存在でした。貪欲な探求心があったピサロは、印象主義に固執せず、若い世代のスーラやシニャックといった新印象派の画家やゴーギャンと交友し、その技法を取り入れる柔軟さも持っていました。ピサロは最後となる1886年の第8回印象派展へのスーラ、シニャック、ゴーギャンの参加を主張し、作品を出品させます。この展覧会で最も注目を浴びたのは、スーラの代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》であり、結果的に最後の印象派展は次世代への橋渡しとなりました。

カミーユ・ピサロ
《丸太作りの植木鉢と花》
1876年

第6章 ポン=タヴァンの画家たち

アンリ・モレ
《ラ・ド・サン、フィニステール県》
1911年
ギュスターヴ・ロワゾー
《フェカンの海岸》
1924年

19世紀後半、ブルターニュ地方の小村ポン=タヴァンには鉄道の開通をきっかけに多くの芸術家が集まっていました。生活費がパリに比べ格段に安く、風光明媚な自然に恵まれ、宗教や衣装などの独自の伝統が残るこの地は芸術家たちにとって恰好の滞在地でした。
第8回印象派展を終えた1886年の夏、困窮したゴーギャンは初めてポン=タヴァンを訪れます。その後、数回にわたる滞在の中でエミール・ベルナールをはじめとする多くの画家と交流し、「ポン=タヴァン派」と呼ばれるグループを形成しました。「ポン=タヴァン派」の特徴は、輪郭線の強調や大胆な色遣いで象徴的な主題を描く総合主義という画法にあります。今回ご紹介するモレ、モーフラ、ロワゾ―は、同時期にポン=タヴァンで活動した画家たちです。

第7章 新印象派の画家たち

ポール・シニャック
《オレンジを積んだ船、マルセイユ》
1923年
アンリ=エドモン・クロッス
《遊ぶ母と子》
1897-98年

1884年5月、独立芸術協会の設立に先立って開かれた最初のアンデパンダン展で、スーラは《アニエールの水浴》を発表しました。感覚的であった印象派の筆触分割を科学的な表現に昇華し、緻密な点描法で描かれたこの作品は、シニャック、クロッスなど多くの画家たちの賛同を得て、新印象派というグループを形成しました。
印象派のピサロもギヨマンを通じてスーラやシニャックと出会い、この新しい潮流に合流します。さらにピサロは、スーラとシニャックを1886年の第8回印象派展に参加させるよう働きかけ、スーラの代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》が出品されました。
スーラは、1891年に31歳の若さで亡くなってしまいますが、新印象主義はシニャックとクロッスによって引き継がれ、明るさや鮮やかさを強調した色彩による表現へと移行していきます。

アンリ・マルタン
《ラバスティド=デュ=ヴェール、ロット県》
1920-30年代
マクシミリアン・リュス
《レンガ工場》
1895-97年

第8章 新印象派からフォーヴィスムへ

シニャックによる新印象派の理論をまとめた『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義へ』は1899年に出版され、マティスなど多くの若い世代の画家たちに大きな影響を与えました。
シニャックを敬慕していたマティスは、1904年にサン=トロペを訪れ、シニャックとクロッスに会い、点描法に取り組んだことから、純色による大胆な色彩表現に到達し、フォーヴィスム(野獣派)という潮流を生み出します。
本章で紹介するヴァルタはナビ派のドニや新印象派のシニャックと交流しながらも、それらに属することなく、鮮やかな色彩と力強いタッチが特徴的な風景画や静物画を描きました。

1905年のサロン・ドートンヌの際、『イリュストラシオン』紙でフォーヴィスムの画家の作品とともに紹介されたことから、のちにフォーヴの先駆者と見なされました。
20世紀はフォーヴィスムをはじめ様々な芸術運動が展開した極彩色の時代でした。印象派が生み出した光は、後進の芸術家たちに多大なる影響を与え、今もなお燦然と輝いています。

ルイ・ヴァルタ
《水浴の女たち》
1910年
ルイ・ヴァルタ
《黄色い背景と大きな花瓶》

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